お手軽トルコ紀行2003(工事中)
前口上
2003年8月21日から28日にかけて,トルコを訪れた。
実は若き日に,「一生のうち一度海外旅行に行くならトルコ」という考えを持っていた。第1にカッパドキア,第2にパムッカレに行けば,いつ死んでもいいと思っていたりした。なので,「来るべき日が来た」といっても過言ではない。
もっとも,最初にそう思うようになった頃は,両者が同じ国土にあるとは思っていなかったし,イスラームやギリシア・ローマの古典文明よりも中国文明への関心が強かったので,即座に「そうだ,トルコへ行こう」とは思わなかった。
やがて大学生の人生1個分の月日が流れ,嗜好も生活システムも変わった。そして,今は今の論理でトルコを旅行先に選び,それが結果的に念願の「カッパドキアとパムッカレを続けて巡り,これでいつ昇天してもOKよ」旅行となったというわけである。
しかし,行ってみると,それだけではなかった。ボスポラスの海とか,エフェソスの図書館とか,ブルーモスクとか,「そういえばこれも見てみたかった」というものが,のきなみトルコにある。加えて,食べ物も,非常に好ましい。
総じて,トルコの大地には,私の好きなものが揃っている。やはり,ここは「約束の地」だったのだ。
ただ,ひとつだけ当てが外れた。私がブルーモスクと思っていたものは,どうやらサマルカンドにあるらしい。
ツアー選び
トルコは日本の風土に似ているとか,トルコ人は親日的だといった伝説をさんざん聞いていた。また,ギリシアと台湾を足して2で割ったようなもんじゃないか,という予測もあった。なので,仕組まれたツアーじゃなく,場当たり的な旅行をしようかという案もあった。
しかし,「広い上に,街歩きの具合もわからない」ことから,おみやげ屋さん寄りまくりというリスクを覚悟しながら,ごく普通のお手軽パックツアーを選択した。
ところが,だ。「これ!」と思ったツアーは,のきなみツアーキャンセル。途中で,今年が「日本におけるトルコ年」だということを知り,「なのにこの有り様か」と,余計にがっかりする。結局,さらに譲歩することになり,ペルガモン(ベルガマ)やトロイ,ヒッタイト遺跡といったところをばっさり諦めて,「2名でも催行」という条件だけでツアーを予約した。
後に,財布的に大いに後悔したし,自由時間が少なくて買い食いができないことを我慢しなければならなかったものの,結果的にはその判断は正解だった。
最低限行きたいところ,食べたいものは網羅できたし,しかもそれを無理なくこなすスケジュールだった。そして,何より,いいガイドさんに巡り会った。たぶんこれが最大の成果だ。
現地へ
飛行機は朝鮮民主主義人民共和国の領空を迂回するように飛んだ。その後,華北を抜け,ゴビ砂漠を経て天山山脈の北を通ったようだ。高山のない,気流の優しいところを選んだということだろうが,シルクロードを空からたどったような気分になる。そしてカスピ海のほぼ真ん中をよぎり,いよいよトルコ共和国上空へ。クルド人のいっぱい住んでるあたりのちょっと北を飛び,マルマラ海側から回ってイスタンブールへ到着。
トルコ航空は,乗務員がとてもかんじよかったし,すべての点で総じて良好だった。数年前に経験した某国の航空会社のように,「食事はどはずれてうまいが,禁煙席でもタバコの煙が漂うし,乗務員にいろいろ不備がある」というようなアンバランスがなかった。
イスタンブールの空港でガイドのオズジャン氏と合流し,イズミールへ向かう国内便に乗り換えた。
空港内をぶらぶらしていて凶暴な怪獣に遭遇し,遠い異国へ来たことを思う。しかし,私の大好きなドリトスのトルコ限定版らしきものを見つけ,さらに速度違反取り締まりマップらしきものを拾い,日常世界はどうやら私の属する場所と大差ないことを知る。
夜7時を回った空港は,人出が多いとも少ないともいえないような状況だった。この,「〜とはいえないし,またその逆でもない」というのが,万事について見られるトルコの一般的印象であった。
おぼろげな始まり
イスタンブールからの国内線では,イズミール上空からの夜景以外は記憶がない。時差の都合で眠くなったためで,ちょっともったいないことをした。
空港では,預けた荷物が出てこなくて,一瞬,青くなった。しかし,ガイドのオズジャン氏がすぐに事態を把握し,機敏に行動してくれて,事なきをえる。
経緯。イズミールの空港では,国内旅客と外国からの旅客を分けて対応していたが,イスタンブールで入国審査を受けていた私たちは,国内旅客と一緒に出ようとした。そしたら,荷物だけ外国人向けの出口に送られてしまって泣き別れ,ということだった。
そこで国際線ロビーへと車で移動したが,その際に,同じトラブルに遭った別のツアーの日本人2人も一緒に移動した。この人たちは,この時点ではガイドが同行していなかったため,オズジャン氏が救出してくれたのである。その間の動きも手早く,感嘆した。
ちなみに,この人たちとは,その後も各地で再会することになる。ほかにも,同じ便でイスタンブールに着いて,ほぼ同じスケジュールで各地を巡回した日本人がいたが,言葉を交わしたのはこのグループだけだった。
イズミール市街に入ると,大都市らしく,モスクがひしめき合っていた。ライトアップされたミナレットが,斜面に広がる街のあちらこちらから伸びている。一瞬,「林立する京都タワー」と思わせるが,だいぶ違う。イスラム圏に来たんだ。単純で大きな感慨が沸き上がる。
しかし,そんな感動を覚えたくせに,ホテルに到着するあたりから,記憶が再び途切れる。そして,旧名スミルナがイズミールになったように,支配民族が変わっても古い地名が形を変えながら受け継がれることとか,dip in the poolの歌に「イズミール」っていうのがあったなあ,なんてことに思い巡らせているうち,まもなく眠りについた。
イズミールの朝
ホテルのほど近くに,小さな港があった。朝の集合時間まで間があるため,港近くの公園を散策した。
すでに通勤途上の人々が行き交う時間だった。海上では,仕事に向かう人をたくさん載せたフェリーが慌だしく港に向かっている。沖合いに目をやると,大きな船がいた。ボスポラスからの航路かと思ったが,まもなく,湾のもっと奥にある主要港を出航したものだとわかった。
ふと,ここがエーゲ海の一角だということを思い起こす。こういうエーゲ海もあるんだなあ。
公園は,海岸沿いにしばらく続いていた。釣り人がずいぶんいた。たいがいは,手に持った糸を海面に直接垂らしている。それだけではなく,バケツなどの容器を用意している人が妙に少ない。本当に釣りをしているのだろうかと思って見ていると,ひとりが手招きした。地面に置かれた麻布の包みを開くと,鈍い銀色の魚が3尾。自慢したかったのか,それとも旅行者には珍しかろうと見せてくれたのか。魚を見せながら,彼は「チュプラ」と言った。魚の名前を教えてくれたのは推測できたが,どう反応してよいのか戸惑って曖昧に笑っていると,別の人が「Bosporus fish」と補足してくれた。一応うなずいて「さんきゅう」と言ってその場を離れた。
段差から落ちて戻れなくなった車の救出を手伝ったりしながら,開店準備に忙しいレストラン街を通り抜けると,再び通勤路にさしかかる。通勤者向けにごまパンを売っている屋台の脇では,今度は古いPeugeotが交差点で動かなくなっていた。30年前にパナマでよく見たモデル。エンジンはさすがに老いているようだが,外装は綺麗にしている。このくらいの年代のPeugeotは各地で盛んに走っていたが,もっと多く見かけたのは,FiatやRenaultの古いモデルだった。後で聞くと,国産車構想に失敗した後,こうした欧州資本が現地工場を設けて生産してきたのだそうだ。日本車はあまり多くない。どこでも見かけるマーチ(マイクラ)も,ここでは,旅程の最後の最後,イスタンブールの街を出て空港へ向かう瞬間に一度見ただけだった。(そのマーチのボディカラーは,派手な赤。登録番号は8686。マーチの数が少ないので,一所懸命に挨拶してアピールしていたようだ。でも,トルコ人には通じないと思う)
ホテルの筋向かいは電話会社の建物だが,ひさしのデザインがなぜか可愛かった。1階はバスタブなど水回りの用品店。ちょっとおしゃれなトイレが展示されていた。
宿泊したのは禁煙の部屋だった。トルコ人は喫煙率が多いとオズジャン氏が言っていたが,吸い殻で街が汚いという印象はなかった。皆がよく気を配っているのか。そういえば,パルテノン神殿付近ですら吸い殻の山があったアテネは,オリンピックを控えた今,どうなっていることだろう。
ホテルの朝食は,野菜(それも,トマトやキュウリといった当たり前のもの)がおいしかった。キュウリはやや大ぶりだが,大味ではない。しかしそれでも,「昔の野菜はもっとすごくおいしかった」とオズジャン氏は言う。トマトを台所で切ったら,隣の部屋にいてもわかったものだ,と。今回の旅では,青果市場に立ち寄ることはできなかったが,いずれ行ってみたい。
エフェソス
最初の行事は,エフェソス(エフェス)遺跡の見学。あの図書館と対面するのが楽しみだ。
空港からホテルまで回送してくれたワゴンバスが引続き我々の足となった。(その後,→パムッカレ→カッパドキア→アンカラという行程をずっとともにした。メルセデス・ベンツの大型バンで,なかなか快適だった) しばしドライブを楽しんだ後,ふとオズジャン氏が山の頂きを指差した。その方角を見ると,エフェソスに向かう交通を監視する砦の遺跡があった。街が近づいたのだ。
港とは反対側,東南方向にある入り口から遺跡エリアに入ると,古代の土管が我々を出迎えた。
街路に足を踏み入れる。良質な遺跡だ。いろいろなものがよく残っているし,丁寧な復元の手を感ずる。ただ,広大な市域なのに,みどころは街路沿いに集中している。それ以外が発掘されていないのか,もともとこのような街なのか。オズジャン氏は,「トルコには優秀な学者が多いのに,予算がないので,作業が進んでいない」と説明してくれた。
ヨーロッパ系の観光客が多いが,うち,いくつかの団体は,エーゲ海クルーズの途中で立ち寄っているそうだ。確かに,肌の露出度が高くコパトーンくさいグループが見られる。
列柱廊,音楽堂,噴水といったみどころを一通り押さえながら,いろいろな話を聞いた。アーチや柱に刻まれた文様,シンボルの話。都市の入り口に浴場が設けられていたこと。気温を下げるために街中に巡らせた用水のこと。トーンを抑えながら,興味深い話題を簡潔に語ってくれた。
音楽堂(Odeon)付近の岩陰には,子猫がいた。ローマのコロッセオもそうだったし,遺跡には猫がつきもののようだ。そう。観光客はやさしくて,食べ物くれたりするし,隠れるところや雨露をしのぐ場所にも困らないもんだから。そういえば,ポンペイなんか,犬が住み着いていたな。あれはさすがにスタッフの飼い犬かなあ。
図書館について勉強している,と伝えてあったためか,公共広場(二つあるうち,東南にある方)の外縁にある一つの建物を指し示し,古代の公文書館だと教えてくれた。
公文書館を過ぎると,いよいよ図書館が見えてきた。しかし,それからの道のりがまた遠かった。沿道に,見どころがたくさん連なっているのである。トラヤヌス帝の噴水やハドリアヌス神殿といった大物たち。こまものでは,舗道の石に彫られたルーレット盤など。だいたい,そのへんの石ころも,たいがい何か歴史を背負っているし。モザイクの敷き詰められた小径も美しい。
モザイクを見ていた時,ポンペイを思い起こしたので,昨年訪ねたことを話したら,「じゃあこのあたりは説明いらないね」と言い,テラスのある家並みやローマ時代の公衆トイレなどは静かに案内してくれた。ほんとは説明を聞きたかったところだが,まわりが混雑してきて,早く図書館に着いた方がよいという助言もあったので,こちらも静かに従った。
そして,ようやく,たどり着く。図書館だっ!!
オズジャン氏は,少し離れたところで簡単に説明したあと,私たちを放し飼いにしてくれた。ここでもほんとはもっと説明を聞きたかったところだが,まずは彼の厚意に感謝しながら,思う存分,マイペースで探訪する。
図書館を過ぎると,港側の公共広場がある。
その近くには,有名な世界最古の広告。鉄柵に囲われているとはいえ,ずいぶんさりげない。
遺跡はまだまだ続いていたが,残りの大半を省略し,劇場を見る。舞台付近を通りがかったとき,どのくらいの音響なのか試そうと,家族が「パンパン」と手をたたいた。よく響いた。するとまもなく,また手をたたく音。他の人が真似をしたのだ。以後,何人かに連鎖していった。
付設の博物館は,規模は小さいものの,なかなかよい。拳闘士の遺骨を分析し,どんな武器でどんな傷を負ったのか明らかにしている独自の企画展がおもしろかった。
ミュージアム・ショップで,エフェソス遺跡のガイドブックや解説書のほか,ケルスス図書館をかたどった土産物を購入する。図書館をかたどった土産物は,何種類もあった。目玉商品のようである。そのこともあって思ったことは,ケルスス図書館は我々の世界では数少ない古代図書館の遺跡として知られるが,その前に,「トルコの中でも,代表的な古代ローマ遺跡」であるということである。トルコ国内には,往時のままの姿で保存された劇場もあるが,それを除けば,数ある古代遺跡の中でも最も状態のよい部類のようである。2000万リラ札の裏面に刷り込まれているのがその証左であろう。
博物館を出た後,エフェソス遺跡のメインエリアを離れ,すぐ近くのアルテミス神殿へと移動。だいぶ新しい時代の建造物を併せて眺められるのもよいが,池が出来ていて,コウノトリがたくさんいるのも楽しい。そして何より,石柱のてっぺんに巣をこさえているのがよかった。
ところで,盛期のエフェソスは海港都市として栄えたという。しかし,港のあった一帯へと下るかっこうで遺跡を通り抜けても,海岸に近づいたという印象がなかった。港が土砂で埋まって久しいのだから,当然ではある。それに,街が海に接していたと言われれば,そうかと納得できるところもある。また,一種の錯覚で,イズミールからの行路が半島の付け根を横切る道だったために,海沿いから内陸へ入り込んだような感覚が残っていたのかもしれない。だが,それにしても海の空気が感じられないのだ。港が失われて,街の魂が海から遠ざかったのではないか。そう思う。
石灰だなあ。
パムッカレに向かうため,今度こそ内陸へと転ずる。カッパドキアを経てアンカラに至る長いドライブ旅行の始まりだった。
鉄道路線がずっと脇を走っていた。我々の通ったのは,内陸と沿岸部とをつなぐ幹線輸送路の一つのようだが,このルートは,エフェソスの栄えた時代にも人や物資が盛んに行き交ったのかもしれない。
温泉を利用した農業施設が見えた。この日の目的地,パムッカレの近づいたことを示すサインだった。まだ陽は高い。そのまま宿に入って温泉やエステで楽しむという選択肢もあったようだが,オズジャン氏の勧めもあって,石灰棚へと直行する。
以前は観光客が縦横無尽に石灰棚を行き来していたようだが,今は遊歩道を裸足で歩きながら眺めるという決まりとなっている。残念といえば残念だが,とりあえずエリアに入ることはできるわけだ。トルコ政府は,乱開発や観光客の暴虐に曝されたパムッカレをただ保護するのではなく,保存を進めながら景観や遺跡に親しんでもらうという面倒なアプローチを採ってくれたようである。ありがたいことである。
湯の流れる地面を踏みしめるのは不思議な感触だった。なかなか気持ちいい。ただ,ちょっと歩きにくかったりしたものだから,足もとに気をとられ,肝腎の「いわゆる石灰棚」をほとんど見なかった。もったいない。そもそも石灰棚が綺麗に見えるアングルが少なかったし,湯の流れを調整しているせいで,見えたとしても水彩絵具のパレット状態だった。もっとも,もう少し粘ればそれなりの景観に出会えたのかもしれないが,翌日もパムッカレ観光だという油断もあって,あまり歩き回らなかった。もったいない。まあ,でも,進入禁止ロープ越しに一応見ることは出来たし,何よりこの地に立ったこと,それだけで十分すごいことだ。
遊歩道からあがり,遺跡プールを眺めたり,その成分表を読んだりしながらスタッフと合流し,ホテルへと向かう。
パムッカレの宿泊施設は,石灰棚エリアから少し離れた付近に立地するリゾートホテルが典型パターンのようである。我々の泊まったホテルもその一つで,客室はコテージ型,屋内の温泉プールと屋外の(ふつうの)プールが付設されており,廊下を水着とビーチサンダルで歩き回ってよい仕様になっている。
トルコは夏が結婚式のハイシーズンだそうで,このホテルでも,1組の披露宴が行なわれていた。玄関先には新郎新婦の乗るらしい車が置かれていた。披露宴会場は,プールサイド。通りがかった時,まだ開宴前だったが,客は楽団の演奏を聴きながら食事をとっていた。無人のプールは,新郎が男友達の手で投げ込まれるのをじっと待っていた。(真相は知らない)
温泉プールは,温泉である前にプールであった。湯に入る人よりも,デッキチェアでくつろいだりプールサイドで肉体を自慢したりする人々が目立ったくらいである。また,ぬるめの湯に長時間浸かる入浴法に合わせてあるので,漠然と日本の温泉の身構えで臨むと痛い目に遭ったりする。
お湯の中でまったりしていて,気づくことがあった。パムッカレの石灰棚は,純白と青という色の組み合わせから,何となく清冽な湧き水を湛えていると思い込んでいた。しかし実際には,遊歩道はなまぬくたい。実は,「あのパムッカレにいる!」という実感がいまひとつわかなかったのだが,それは,このことがかなり影響していたようである。
それに気づくとともに,ふと,「遺跡プールに入りたいっっ」という虫が疼いた。遺跡プールは長年の憧れだったが,この日は慌だしく,手続きもわからなかったので,「まあいいか」と通りすぎた。しかし,「遺跡プールは我々を待っている!」という考えがじわじわと肌から浸透し,体温を上げ,熱くてたまらないというまでになったのである。そんなわけで,翌日の課題が定まった。
遺跡に浸かる
次の朝,ホテルの部屋を出る前に,TVで天気予報を見ると,風速の予報画面が可愛かった。
朝は,まず,ネクロポリス(と,ちょっとだけヒエラポリス)の探訪。しかし,前日にエフェソスでテンション上げすぎたせいか,この遺跡の見学はおざなりな態度になる。
見るべきものがなかったということではない。ギリシア時代の共同墓地・ネクロポリスは,それぞれに立派なおびただしい数の墓が並び,丘の中腹まで延びていた。ローマの様式の墓もまじったりしていた。墓室を囲う石は,やや色黒だった。都市の遺跡にも同じような色の石が積まれており,崩れそうで崩れない遺構など,おもしろいものがいっぱいあった。そう。全部見ていたら時間がとても足りないのでうんざりしたわけである。さらに,石灰棚の下にも古代遺跡が埋もれているという。高い丘になっていて,しかも温泉が出るのだから,ギリシア人やローマ人,あるいはもっと古い先住民がここに目をつけるのもうなずけるのだが,それにしても,何もこんな立派な遺跡を,石灰棚の奇観とセットにするこたぁねーだろ。
さて,そんなこんなで遺跡見学を早々に切り上げ,遺跡プールに向かう。だいぶ甘えが出てきていて,手続きを全部オズジャン氏に任せてしまい,自分たちは着替えだけ持って更衣室へ。幸い,混雑していなかった。そして,いよいよプールへ。
遺跡プールは,箱根小涌園のパルテノン風呂と似ているようでだいぶ違う。まず,建物は原形を留めていない。なると形の柱をはじめ,石材が湯船の中にランダムに転がっていて,とても入りにくい。そもそも,これを湯船と呼んでよいのだろうか。だいたい,人がばんばん入るものだから,だいぶ汚れている。頭まで浸かるつもりはなかったのでコンタクトレンズのまま入ったが,うっかり潜水した後,レンズを見ると,だいぶ大きな異物が付着していた。水底の石は苔まみれ。歩くとぬるぬる滑る。とても危なくて... ああ,なんて楽しいのだろう。
この遺跡プールは,パムッカレという多面体を圧縮したものだと思う。当初,パムッカレにある必然性がないように思い込んでいたが,よく考えれば,温泉と遺跡がセットになっている当地ならではのスポットである。また,遺構とともに水に浸かるという経験は,石灰棚の遊歩道で,中に入り込みながら景観を見るというのと似る。一方,遊歩道で湯に足を浸しながら散策すること自体は,石灰棚鑑賞とは別のファクタである。遺跡プールも,遺跡であることを忘れても温泉として機能する。このように,遺跡プールは,パムッカレのsummaryとなっているのである。
こうして,おさらいができたので,石灰棚エリアを後にする。途中,ネクロポリスの修復作業を見る。この地域で遺跡をかまうと土木工事になるということを了解する。
丘を下り終えたあたりで振り返ると,石灰棚の終端の光景が目に入った。それを背に出発したツアーバスは,夜半まで続く長い行軍へと突入した。
途中,湖のほとりで,ほのぼのしながら昼食。名前は忘れたが,澄んだ水を湛える湖である。湖水の色は,スイスの氷河から流れ下る川と似ていた。大きな湖だが,岸に打ち寄せる波は小刻みで,せわしなかった。
死の行軍といっても,乗客である我々は楽ちんである。車窓の景色が微妙に変化するのをじっと見ていたり,平原に沈む夕日を必死で撮影したりしていただけである。対し,ドライバー氏(名前を聞きそびれた)が大変なのはもちろんだが,オズジャン氏も,ドライバー氏が居眠りしないよう,ものすごいテンションでしゃべりつづけた。しまいには,助手席に移って奮闘していた。そんな気遣いがあったものの,夜も更けてさすがに限界が近づく。彼(ら)の疲労と我々の申し訳なさがピークに達した頃,ヘッドライトの視界に,尖塔状の岩が忽然と現れた。恋い焦がれていたカッパドキアの奇岩であった。
あまりのあっけなさとさりげなさに,人工のモニュメントかと疑う。温泉地のゲートのような。しかし,翌日に同じところを通ると,確かに本物なのだった。だいたい,素の奇岩が潤沢にあるんだから,下手に模造品を作る必要はないんだな。
まもなくユルギュップの市街地に入った。洞窟住居をホテルに改装するための工事現場を見かけ,カッパドキアにいることを実感する。街路に人はあまり見られなかったが,何とはなしに,観光の街らしい華やぎがあった。街はたて込んでおり,路駐が多く,石畳やバンプもあってさらにドライバー氏を苦しめたものの,何とか宿にたどり着く。こうして,ようやく,長い道のりが終わった。
と思いきや,翌朝聞いたら,ドライバー氏はそのあともすぐには休まず,車の点検に出かけたそうだ。タフじゃのぉ。というか,プロなんだな。しかし,我々は,ホテルに着くなり,夕食もいただかず,すかさず就寝。なぜなら,翌日の早朝,一大イベントを控えていたからである。
気球は青かった
集合時間は早朝5:00だった。サマータイムだったりするから,本来の時刻は4:00ということになる。
(つづく)
copyright (c) 2003 by Tomohide H. Muranushi