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佐世保からバスで北松浦半島の西海岸を北上し、平戸に向かう。田平から平戸島に架かる平戸大橋を渡たり、終点の平戸桟橋に到着。平戸港は、リアス式海岸に形成された港で、周囲は丘陵で囲まれ、斜面地が海に迫った潮の香り漂う風光明媚なところだ。
平戸市は長崎県西北端にあり、北は玄界灘に面し、西は東シナ海を望む平戸島(南北約40キロ)を中心とする人口約2万4千人のまちだ。近世初期、「西の都」とうたわれた平戸は西欧文化の窓口であり、歴史的遺産と自然景観に恵まれた異国情緒漂うところだ。「健康で活力に溢れ、文化の薫りがする観光保養都市」を将来都市像に掲げ平戸市では、平戸和蘭商館の復元や、観光と農林水産業の連携を図り、「平戸らしさ」をテーマにまちづくりを進めている。
平戸市役所を訪ね、都市計画係の松尾国夫さんから話を伺う。
平戸市は、歴史的遺産や自然景観に恵まれているものの、昭和52年の平戸大橋の開通以来、高度経済成長や人口の都市流出の影響を受けて若年層が流出し、過疎化や、就業者の高齢化が、平戸市の農漁業を中心とする基幹産業に打撃を与え、深刻な問題を抱えた地域だ。
歴史的文化遺産を活かしたまちづくりは、昭和51年度の国土庁委託地方都市整備構想策定調査「モデル的都市機能調査(伝統的文化都市)」が長崎県により実施され、『ひらど―伝統的文化と都市環境』(昭和52年3月刊行)にまとめられ提言がなされたが、これは単なる調査・提言で終わってしまった。また、平成7年にはこれをふまえた第3次「平戸市総合計画」が策定されたが、計画は思うように進まず今日に至っている。
平成3年度には昔の町家が並ぶ中心市街地商店街のカラー舗装が完成し、平成10年には平戸市地域活性化グループ連絡協議会などが結成された。また、今年、平成15年2月には木引田町商店街振興組合が、平戸英国商館通り商店街内の空き店舗を活用して整備を進めていたコミュニティセンター「按針の館」もできた。
平成9年10月には平戸オランダ商館復元を目指すシンポジウムが開かれ、以後、国土庁過疎地域等活性化推進モデル事業で平戸オランダ商館の復元とまちづくりが始まった。また、日蘭交流400周年にあたる平成12年には平戸港交流広場が完成し、一方では歴史の道「モニュメント群」も整備された。
平戸市では、昭和47年12月に「平戸市風致保存条例」が制定され、歴史的伝統美観と自然景観の保存につとめているが、近年二つの問題が起こった。その一つは、平戸の風致地区ビル建設問題だ。平成10年、崎方町の風致地区に6階建てのビル建設(電化製品販売店)問題が起こり、松浦史料博物館からの眺望や、周囲から見た松浦史料博物館の歴史的景観が破壊されると、建設反対の要望書が出され、ビルは3階建てとなった。もう一つは、老人福祉施設の建設問題だ。平成13年4月、市内の医療法人が浦の町に建設を計画する老人福祉施設に対して、「平戸市風致保存審議会」が、建物の高さ、外観は周囲に調和するよう求める動きがあり、これらのことがきっかけで、景観条例をつくるべきだという話も出たが、検討をしつつ今に至っている。
最近のイベントとして、平成14年7月から11月にかけて都市計画家協会、平戸市役所、市民などによる「都市計画キャラバン2002平戸」の5回の平戸まちなみ探検ワークショップが開かれ、延べ340名が参加した。平戸まちの気になる場所や景観の写真撮影をし、どのようにしたらより良い平戸らしい町並みになるのかの具体的アイディアを出し合ったが、市民の関心・参加は今ひとつ盛り上がりにかけた。
平戸市役所を後に、まちを歩く。
まず、桟橋近くにある平戸港交流広場を見学。ここは、日蘭交流400年の平成12年に完成した親水公園で、じゃがたら娘像やポルトガル船のモニュメントがある。じゃがたら娘像は、昭和40年に建立されたもので、寛永16年(1639)、平戸、長崎の外国人に関係ある婦女32名がジャガタラに追放され、平戸から出航した歴史にちなんでいる。また、ポルトガル船モニュメントは、天文19年(1550)以来、永禄7年(1564)に長崎福田浦を寄港地とするまでの間、ほぼ毎年平戸に来航していたことを記念するものだ。
次に、平戸和蘭商館跡(大正11年に国史跡)に向かう。平戸和蘭商館跡は、平戸港入口にあたる「常燈の鼻」付近にあり、一部がオランダ公園、カロン庭園として整備された(平成12年)。周囲には、オランダ埠頭と呼ばれる海に下りる石段や、オランダ塀と呼ばれる石塀、またオランダ井戸なる古井戸が残されている。平戸和蘭商館跡地から西に向かって海沿いに延びる町並み崎方町では、海産物商がアゴ(トビウオ)、カマス、アジの干物やイカの一夜干しを並べ、漁村と化した港町の風情が漂う。
平戸和蘭商館の設置は、慶長14年(1609)、2隻のオランダ船が平戸に来航し、時の領主松浦鎮信の斡旋によって、家康、秀忠に謁見したオランダの使節は、商館の設置と貿易の許可を得たことに始まる。初代商館長は、ジャックス・スペックだ。当初、平戸和蘭商館はオランダ勢力の「東インド」における活動を支える拠点として食料や武器などを調達する役割を持っていたとされる。ほどなく、大砲の修理などが平戸で行われ、日本人が傭兵としてオランダ船に乗って東南アジアへ渡っていった。やがて、タイオワン事件を契機として平戸オランダ商館は日本との貿易に重きをおくようになり、1630年代後半から貿易が増大し、平戸和蘭商館は巨大な石造倉庫を建築し施設の拡張をはかっていく。しかし、倉庫にキリスト生誕を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に破壊を命じられ、寛永18年(1641)に長崎出島への移転を命じられ、平戸和蘭商館の歴史は幕を下ろすことになった。
平戸和蘭商館の西の山麓には、城郭を思わせる石積みの屋敷がある。財団法人松浦史料博物館で、廃藩後の明治26年に松浦氏の住まいとして再建された建物である鶴ヶ峰邸が展示場として使われている。お寺を思わせる棟の高い建物だ。敷地内には茶室閑雲亭もある。この博物館は、西海国立公園が指定された昭和30年、松浦氏から寄贈を受けてつくられた。
松浦氏は、平安時代末期、源久(ひさし)が、京から肥前国今福(松浦市)に検校として下り、以来、松浦姓を名乗り、松浦郡、彼杵郡、壱岐に勢力を伸ばした豪族だ。そして、松浦氏は、領内の要地に子孫を配し、一族が結束をし、「松浦党」として共存共栄をはかっていく。その一つが松浦史料博物館の裏山に館を築き平戸に居を構えたのは、鎌倉時代初期の嘉禄元年(1225)のことで、松浦照山の時代である。以来、松浦氏は平戸の根を下ろし、江戸時代も続いていく。
松浦史料博物館には「八幡大菩薩」と墨書きした幟が保管されている。「八幡船(ばばんせん)」の幟だ。松浦氏は水軍を持っており、海を活躍の舞台とした豪族だ。慶長5年(1600)、豊後臼杵に漂着したオランダ船デ・リーフデ号の船長をオランダ中継基地であるタイのパタニに送還する話が持ち上がった。そして、慶長10年(1605)、松浦家26代鎮信がこの任にあたることとなった。海に生きた松浦氏ならではの話だ。この関係で、慶長14年(1609)に2隻のオランダ船が平戸に入港し、商館の設置が平戸と決まったのも、このような縁があつたからだと言われている。
松浦史料博物館から入江をへだてた丘の上に再建された平戸城(亀岡城・日の岳城)が一望できる。海抜50メートルほどの台地上にある近世になって松浦氏が本拠とした城郭だ。平戸松浦氏は、秀吉政権下の天正15年(1587)、大名に取り立てられ、文禄慶長の役に出陣し、帰還後、松浦鎮信が慶長4年(1599)に日の岳城を築いた。14年後の慶長18年に日の岳城は焼失して廃城となるが、その後、宝永元年(1704)に再建に着手し、享保3年(1718)に完成した。往時の遺構として北虎口門、多聞櫓(狸櫓)が現存している。
松浦史料博物館から、山麓の道を延命町へと歩く。古びた石垣が並んだこの界隈は、オランダやイギリスとの貿易を行っていた時代、多くの貿易商が軒を並べていた通りで、石畳が敷かれていたという。明の様式で作られたといわれる六角形の石柵で囲われている井戸や、樹齢400年と推定され貿易商の庭に植えられていたという大蘇鉄が残っている。
入江に沿って褶曲した町並みを、浦の町、宮の町、木引田町、魚の棚町と南に向かう。この一筋の道が平戸の中心市街地商店街で、道路はカラー舗装となっており、街路灯のポールには「オランダ街道」、また、飾り看板には「平戸英国商館通り」という標識も出ている。本引田町の十八銀行は英国商館跡地、また、その南隣はオランダ船「デ・リーフデ号」の航海長ウイリアム・アダムス終焉の地と、由緒ある場所が続く。和蘭商館が置かれた平戸には、イギリス商館もつくられた。初代イギリス商館長はリチャード・コックスイギリスだ。商館比定地対岸の平戸市役所敷地にはイギリス商館記念碑がある。これは、昭和2年にイギリスと日本との交流発祥を記念して日本在住イギリス人たちにより寄贈されたものだ。
商店街西側の山の中腹には、曲がりくねった細道が続いている。その一角に、王直(おうちょく)屋敷跡がある。明の海商・王直は、天文10年(1541)、ここに居宅を構え、松浦家第25代隆信の優遇を得て貿易を行っていたという。また、それにともない、多くの明の商人が平戸に定住したと言われている。ポルトガル船平戸港入港の前段階として、平戸を舞台とした明の商人による盛んな交易活動があったことを見落とすことができないであろう。この王直屋敷跡は、天正16年(1588)に領主の隠宅として用いられるようになった。
王直屋敷跡の細道を北に向かい、突き当りのT字路を左に折れると、山に向かって石畳の道が伸びている。瑞雲寺、光明寺を経て石畳の道を登ると、丘の上に大塔・小塔がそびえるゴシック様式の聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂が建っている。それは、昭和6年に完成したカトリック平戸教会だ。敷地内には、聖フランシスコ・ザビエル記念像聖と、平戸殉教者顕彰慰霊之碑が建立されている。イエズス会を創立したフランシスコ・ザビエルは、インド伝道の後、天文18年(1549)鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教とヨーロッパ文化を伝えた。翌19年、平戸に来島し、領主松浦隆信の歓迎を受け、教えを説き多くの信徒を得、天文20年には、日本最初の教会が平戸に建立された。豊臣秀吉の禁教令発布でキリスト教の弾圧が続き、平戸の度島、根獅子、生月、田の浦、薄香、中江の島、川内浦等で殉教した信者の数は400人を越えると伝えられる。平戸殉教者顕彰慰霊之碑は、昭和6年に建てられた教会の献堂50周年に当たり建立されたものだ。
平戸市街地を後に、平戸島東海岸を通り、千里ヶ浜を経て川内へと向かう。千里ヶ浜の波打ち際には、「鄭成功児誕石」といわれるものがある。鄭成功は、中国福建省生まれの明人・鄭芝龍(しりゅう)と川内浦の女・田川マツとの間に生まれた日中混血児で、鄭成功の母が貝拾いの際に産気づき、この石にもたれかかり鄭成功を生んだと伝えられている。
平成11年年9月、台湾の淡水河河口の港町・淡水の紅毛城を訪れた際、鄭成功の名を耳にしたことがあった。1629年にスペイン人の手により作られた紅毛城は、その後、スペインとの戦いに勝ったオランダ人の手に渡ったが、1663年に鄭成功が台湾を制圧してオランダを追い出して清の復興をはかった、とその地で見聞した。
鄭成功の父である鄭芝龍は、オランダ船に乗り込み川内浦に来航し、貿易商、また海賊の大将として活躍したという。寛永元年(1624)、鄭成功が生まれるが、彼は7歳の時、父のもとへ単身渡海し、15歳で南京大学に学び、やがて、明朝が滅び清に変る時軍を率いて明の再興をはかるが、戦いに敗れた。その後、鄭成功は台湾に本拠を移し、台湾からオランダ人を追い出して善政を敷き、台湾の人々に慕われ、神として祀られるようになった。
昭和37年、平戸では、鄭成功後300年の記念式典を行うことになった。その際、台湾の延平郡王祠より分霊が贈られ、平戸に鄭成功廟が建立された。鄭成功廟は、生まれ故郷の川内集落東端の岬に建てられている。
16世紀半ばから17世紀前半にかけての平戸は、ポルトガル、明、オランダ、イギリスと盛んに交流した国際都市であったことが、数々の史跡が物語っている。寛永18年(1641)、平戸和蘭商館が長崎出島への移転を命じられた後の平戸は、松浦氏の城下町として江戸時代を過ごすが、明治の廃藩置県を境に、城下町としての役割も消えうせ、農業、漁業で暮らしを立てる西海の一離島となってしまった。平戸市が市制を敷き、高度経済成長が始まった昭和30年に43,302人を数えた人口は、平成12年国勢調査では23,900人と半減し、過疎化が進行した。平戸島には、農業では平戸牛の飼育や、沿岸漁業があったが、現在は、農業や漁業もふるわず、島にいても働き口があまりないので故郷を後にする若者が多い。島の若者たちは、京都府や滋賀県に出かけ、大工や左官稼ぎをすることが多いという。第1次産業に就く人(構成比)は、昭和30年に69.6%あったが、平成12年には23.2%と三分の一に減ってしまった。そして、65歳以上の人が26.3%を占める高齢者の多い地域になってしまった。平戸がもっとも輝いていた時代を象徴する平戸和蘭商館の復元整備事業が、過疎債を使った過疎地域等活性化推進モデル事業で進められているが、これは歴史の皮肉と受け取れなくもない。
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